死についての言葉

数十年ぶりくらいに「死」を含めた悪口を投げかけられ、今まで経験してきた諸々の記憶がよみがえっている。
内心、やはり悲しいなと思っているのだが、冷静に考えてみると良い大人が口喧嘩とはいえそういう言葉が発してくるというのは、相手との間に信頼関係を築けていなかったのだなと理解している。これは非常に大事なことで、相手に死を望む悪口をいう時点で発した本人の考えはともかく、受け取った側は自分の存在があってもなくてもよいものだと認識をする。

冗談で言ったのだと主張する意見もちらほら見かける。これについて私が思い出すことは、学生の時に同級生に同様の言葉をよく口にしている人がいた。あまりにも頻繁にいうものだから、先生もカッとなって相当苦しい体罰をしてしまったようだ。死ということはこういうことだと理解してほしかったらしく。もちろん当時でも問題になった。ここから学んだことは、言葉としての「死」が実態とかけ離れて理解されていく、もしくは実態を知らず「死」についての重みがわからずに使っていることがあるということ。

学生の時に周りでも悪口に「死」を取り込んでくる仲間は少なかった。私自身も、確か使って親に注意された記憶がある。その時はみんな使っているとも思った記憶があるのだが、年次が上がっていき周りでも事故や事件、病気などで亡くなる友人も多かった。死の後にどんなことがあるか、事故で人がどのように死んでしまうのか、その過程はどうか、想像すると「死」に関する悪口というのは自然と使わなくなる。

こういった悪口について、インターネット検索すると『だんなデスノート』なるものを見つけてしまった。一緒に生活していたり、結婚した相手に対して、ここまで死を願うのかということにかなりの衝撃を受けた。毎日、同じ部屋で寝ていたり、食べ物を食べている相手が自分に殺意を抱いている、もしくは自分の死を願っているなんで、想像すると恐ろしくなる。

もちろん裏には、ひどいことを言われたり、暴力を振るわれたなど、いろいろ逃げられない状況にあって発せられたものもあるかとも思うが、それにしても私自身は相手に暴力は振るっていないし、ましては人格否定などもしていなかった。それでも「死」に関連する悪口を投げかけられることもあるのだ。

相手がどこまで本気で言ったのかなどは全くわからないのだが、受け取り側の私からすると、極力接触は避けたくなるし、どこかで殺されないか注意を払う必要がある。殺されるというと大げさだが、年を取ってくると健康上の問題を抱えていくし、病気になりやすい遺伝などを持っていると、わざわざそういった個所をじわじわつぶしにかかってくるのかもしれない。私はというと、肝臓が弱いようなので、しょっちゅうアルコールを飲みに誘われたり、バランスの悪い食生活を継続していたり、運動を制限されると一発かもしれない。一時生命保険に入るのを強く勧められたり、説明だけ聞いてはいらないでいると急かして来たり、いろいろな場面が疑わしく見えてしまう。

もちろん相手にも「死」を含む悪口を言った理由はあるだろう、私は暴力を働いたわけではなかったのだが、相手はとても追い詰められた時期があって私に殺されそうだと感じたことがあったのだそう。確かに殺されそうだと一度感じた相手をまた信じることは難しいし、心のどこかで「死」を願っていたりするのかもしれない。

今、私自身は信頼できる相手から「死」を望む言葉を投げつけられて、悲しみ・不信感・怒りなど心中は様々で非常にもやもやしている。正直そんな言葉は使ってほしくなかったのだが、使われてしまった以上はいろいろな可能性を考える必要がある。

今後できることはどんなことがあるだろうか。いくつか考えてみると、生活上では距離を置く、接点を減らし最低限の接触に保つ。そして、いつも忘れがちなのだがもう一度自分の行いで相手を不快にさせていないか、自分がやったことよりもより深刻に相手がとらえてしまったことがないかを考える。今回の件に関しては一つ思い当たる節はあって、相手の触れてほしくない思い出であったり、言われたくない小言を言った可能性もある。

自分自身の心の余裕も限度があるので、壊れない程度にとどめないといけないが、まだもう少し頑張れそうだ。自分自身が使わなくなった悪口を数10年以上聞いてこなかったと思うが、久しぶりにそんなことを投げかけられいろいろなことに思いを巡らせた1日だった。決して良い1日ではなかったが、明日が今日よりよくなりますように。